入会3年目、25歳の春に福島から東京へ転勤となりました。
震災以降、2年間モヤモヤと福島で過ごしていた時に不意にやってきた転機。
でも、地元から離れて気分転換!!やったーと思っていたのも束の間。
それまで総務課で一般事務・広報を担当していたのに、東京では青果物(野菜・果物)販売担当に。
農業に週末休みがないように、土日勤務が当たり前の企業一の激務部署。
週に2~3回は7時前に出勤。ハイシーズンの帰宅時間は21〜22時。
市場は超がつく男社会。義理と人情が残る特殊な業界。口約束で大事な取引が決まっていく様はネット時代には異様な光景でした。
気難しい担当者が多く。女だからとなめられた態度を取られるのは朝飯前。
毎朝、家のドアを開ける時は、戦場に行く覚悟で仕事に向かっていました。
100人のトマト農家さんの生活を支える誇りと責任
東京では、南会津地方のトマトの大産地の担当を任されることになりました。
農家さんが作ったトマトを1円でも高く販売してもらえるように、「産地」と「市場」の間に入って販売調整するのがわたし達の役目です。
東北の野菜は夏が主流。東京首都圏3000万人以上の胃袋を満たす重要な役割を担っています。
東京近辺のみなさん、夏のスーパーで産地表示ぜひみてください。きっと東北の野菜・果物にたくさん出会えるはず。
農家の手取りを決める生命線を握る
わたしが任されていた、一番責任のある&毎日欠かせない業務が「分荷(ぶんか)」です。
分荷とは、東京近郊に複数ある市場(大田市場、築地市場など)にどれだけ配送するか振り分けする作業のこと。
トマトの販売額は一律ではありません。需要・供給のバランス、市場の規模、担当者の力量…によって日々変動します。
多い時で1万ケース(4kg/箱)超えるトマトを市場の担当者と密にコミュニケーションをとり、市場動向を読み取り判断して振り分けする。
つまり、分荷(ぶんか)は農家の手取りに関わる生命線。
この業務を異動1年目のわたしが一人で担っていました。
たった一枚のファックスを送るために誰もいない職場に向かう日曜日
分荷作業があるので、トマトのシーズン(7月下旬〜11月上旬)一夏、約4ヶ月は休むことができなかったので、結果的に100連勤を達成することに…。
市場は表向きには水・日曜日が休みなのですが、実際中では動いています。だって食べ物の供給は止められないじゃないですか?
もちろん、担当を持つと聞いた時は覚悟していたことです。週末だからってトマトが成長を止めてくれるわけでもないし。
辛かったのは、9人いる東京の事務所の職員のうち、月〜日曜日まで出勤しなければならないのが、わたし一人だったこと。
日曜日は他の職員は電話で仕事をすませていました。
だけどわたしの業務はなぜか、「事務所に行ってファックスを送らなければならない」という暗黙の了解があって…
分荷自体は電話だってメールだってできるのに、「農家だって頑張っているんだから」という謎の理由でファックス一枚だけ送るために日曜日も往復1時間かけて一人、大森→神田の事務所に通勤です。
明らかにおかしい業務体系に一言でも物申せば、ここの部署にはいられなくなる…という無言のプレッシャー。とにかくやるしかありませんでした。
中の人も疑問を持っているのにすぐには変えられない古い企業体質。この時ほど憎んだことはありません
ファックスを送るタイミングがお昼だったので、午前中に遊びに行くことも友達とランチの予定を入れることもできず、誰かと予定を入れるとしたら、日曜日の夜だけ…。
人に会うことが自動的に制限され、孤独な日々でした。
25歳。友達とだって遊びたい、恋だってしたい、もっと寝たい…
今ここで倒れたら、仕事休めるのにな、と何度思ったことか…
でも「辛い」の一言を言ったら負けるような気がして、頑張っている自分を否定してしまう気がして言えませんでした。
限界までいって見えてきた次へのステップ
転勤2年目の夏に体と心のバランスが崩れます…
- 呼吸がいつも早い
- 本を3ページと読んでいられなくなった
- 激しい音楽が聞けない、優しい音しか受け入れられない
- プレッシャーで頭痛が止まらなくて鎮痛剤を1日5回以上飲む
- 生まれて初めての婦人科受診
農家さんの生活を支えているという誇りと責任だけで駆け抜けてきたけど、実際はもう限界でした。
職場から帰宅する電車で気がついたら目の前が涙でぐしゃぐしゃになって人目もはばからず嗚咽。
もうそろそろいいんじゃない…?
ともう一人の自分が言っているような気がしました。
家について部屋で一人。泣きはらしてボロボロなのに、不思議と思考はシンプルに研ぎ澄まされていきます。
「震災以降ずっと胸に抱えてきた漠然とした不安」「好きな人と家族になり母になるという等身大の夢」
日本が嫌なら海外住めばいい、出会いを求めるなら自分の時間を持てる環境に身を置けばいい…
自分の叶えたいことに向かって一歩踏み出すなら今だ…と本心が言いました。
手放すことが人一倍苦手なわたしが、人生で一番大きな決断を「退職」を決意した
いつもお世話になっている皆さまへ
このたび、4年間勤務したJA全農福島を退職いたしました。
関係者の皆さまには公私ともに大変お世話になりました。
4年間という短い間でしたが、多くの学びと経験の機会をいただき、凝縮した時間を過ごすことができました。
思い返せば、入会直前の震災・原発事故の発生が私の社会人生活のスタートでもあり、今後の生き方を見つめ直す原点でもあります。
“福島の食と農”というまさに震災後、日本全国・世界から注目され続けている仕事に就いたことも何かのご縁かと思います。
特に最後の2年間は大消費地である東京で、入社以来、一番やりたかった仕事である、青果物販売の最前線に立たせていただいたことは、今後の人生の一歩を踏み出す上で大きな経験となりました。
客観的に見ると確かに時間的制約が多く、日々闘いの場に行くような生活でしたが(笑)心身共にフル回転させ120%の力で仕事に向かうということは、誰しも経験できることではないし、きっとその時にしかできなかったことだと思うので、この機会に感謝しています。
これまでの経験を糧に、震災5年目にようやく一歩を踏み出します。(スロースターターなもので^^;)
今は、希望と不安と半々。
今後は、夢や目標に向かって頑張ったり、息抜きも覚えながら、より自分らしい生き方を見つけて参ります。
ありがとうございました!!!
2015年3月31日
これは2015年4年間務めたJA全農福島を退職した時にFacebookに載せた投稿。
正直いうと自分で決めたのに、退職する当日も「本当にこれで良かったんだろうか?」とまだ迷っている自分がいました。
でも、このタイミングを逃したら一生ここままだぞって本心が強く訴えてくるんですね。
もしかしたら将来この決断を後悔する日がくるかもしれない。
そんな不安を抱えながらも、過去の自分の決断を肯定してあげられるように「今」を精一杯楽しめるよう行動することにしました。
せっかく選んだ道なら楽しく、そして前向きに!
震災以降、ようやく、本来のポジティブな自分を取り戻した時でした
気がつけば30代に突入
気がつけばわたしも30歳に。
退職後は海外へ。新卒で勤め始めた23歳の時には思い描くことすらなかった未来↓を今日も生きています。
- 東京に住む
- 海外に住む
- 英語を話せるようになる
- 世界20カ国以上を旅する
- インターネットを利用して個人で仕事をする
- 福岡の田舎に移住する(Now)
ここまで書いたように、震災以降、20代の4年間は苦しい期間が多かったです。
今振り返ればそれは「自分に素直に生きていないからこその苦しさ。」
まだ若いから苦労しろとか、明るい未来にための修行…
どうかそんな声を無視して、目一杯「今」を楽しんで欲しい。20代でそれができなかったから、30代の今のわたしがそれを証明していきます。
自分に素直に生きていることができれば、みんなもっと楽になるのにな…その思いを原動力にここでは自分の「好き」なことを発信をしています。
そして自分の周りにもそういう人を増やしていきたい。そしたらきっと世界はもっと楽しくなるような気がしているから。
MAKI
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